メモ「最後の兵庫県問題」
現在の社会の成り立ち、構成、そういうものを是としてその体制を護持するという考え方が一方にあり、また一方にこの体制を変えていこうという方向がまたあるわけです。この二つの方向性はどんな組織、体制にもあり、主に自分にとって利があるかどうか、あるいは自分にとって理想に近いかどうかで、どちらに与しようかということが出てくるというように思えます。
歴史的に典型と見えるのは、この国の統治上に常に浮上する権力闘争というものがあります。古くは天皇の即位の際に見られた権力闘争というものがありますし、皇族の中からその時の天皇に謀反を起こすという仕方も見られました。武士階級が興り、将軍の座に上り詰めるための策謀と、将軍の座を巡っての謀反も歴史的には絶えず起こってきたことだと思います。
こういうことは古代に統一国家が成立してから、ずっと繰り返されてきています。後世の人々は、おそらく前例となるそうした謀反や下剋上みたいなことを意識すると否とを問わず、真似してきています。文明や文化が発達した今日でも、依然としてそうした真似事の延長上にあります。
総理大臣の座を巡っての対立、闘争。地方の長の座を巡ってでもありますし、民間でも社長の座を巡っての権力闘争、それに付随する策謀、策略、陰謀など広く行われているだろうという気がします。
それでちょっと調べますと、それぞれに言い分があるわけです。そうして残された記事、記録などあると、たいてい勝ったもん勝ちのそれが残ることになり、それが正当化の記録になります。あるいはそちらの言い分が正当化されるわけです。
こうした争いと、どちらが勝者かとか、どちらに正義があったかとか、ぼくにはどっちでもいいわけです。また事実は分からないわけです。要するにそれらは大小ありますが、大小の覇権争いなだけで、それはどっちも止めろ、どっちもいなくなれとしか言いようがありません。なんせどっちにも与したくないわけだし、目の上のたんこぶみたいな存在に、ああしろこうしろと指図されるのも厭なわけです。
AもBも、現状では不満だから、こうしたいという理想を持つわけです。 それぞれにこっちがいいんだと争います。武力で戦うか、言葉で戦うかの違いはありますが、いずれも権力を掌握したいと言うことではおんなじです。つまり、どっちが勝ったとしても、最高権力者、準権力者、下々の小権力者が居続けると言うことでは同じです。
現在騒がれている兵庫県政の場合も、問題の発端は最高権力者である知事に対して、その部下である幹部の1人が告発したことに端を発します。それ自体は直接の権力闘争ではありませんが、幹部からすれば斉藤知事は兵庫県政にふさわしい知事とは言えず、告発には失脚の意図があったかも知れません。幹部の理想からすれば、失脚してもっとふさわしい人物に知事について欲しかったのかも知れません。 こうした権力者の首のすげ替えは,上記したところでもそうだし、またいつの時代、どんな地域でも数限りなく起こってきた出来事に過ぎないと言えば過ぎないと思います。もっと言うと、掃いて捨てるくらいにたくさん起こってきた中のひとつの事例にしか過ぎません。もちろんその時々において、それぞれに切実な問題であり、それぞれの当事者たちには熱い思いがあるには違いありません。しかしぼくからすれば、幹部の告発は知事側近とそれ以外の一部の職員との、県庁内における対立の問題であって、旧来の権力闘争の二番煎じ、三番煎じ、四番煎じにしか見えないわけです。
仮にこの告発が奏功して、知事の首がすげ替えられたとします。そうした際には、登場人物は変わりますが、また規模の大小はありますが、同様の問題が勃発するはずです。全員が全員、めでたしめでたしとなるはずはないと思います。
当事者ではないぼくらにとって本当の問題、本質的な問題はどこにあるのでしょうか。人間性や人格の問題でしょうか。知事を選ぶ選挙の問題でしょうか。あれこれ手を尽くしても、そうした改善策などで決着したり、問題そのものが解消するとは到底思えません。もちろんそうしたことを練りに練って、もう少しましになることはあるかも知れません。しかし、明治維新から百五十年あまり、大和朝廷成立から数えれば千七百年以上に渡って、強力な支配と権力、武力以外に反対の声を封じることは出来なかったと思います。そのようにも、権力者がいれば、必ず対抗勢力は生まれると言うことが出来ます。
ここまで来たら権力闘争、あるいは権力闘争まがいの争いをなくすにはどうしたらいいか、もはや自明なのではないでしょうか。そしてもしもその自明を実現できないとすれば、これからも同じ悲劇、同じ悲哀が繰り返されることを黙って見ていくほかありません。
ここでぼくが述べておきたいことは、知事側を擁護するとか、告発した幹部の無念を晴らしたいとか、そういうことが言いたいわけではありません。そう言うことは現在もSNS上で盛んに言葉の銃弾として飛び交っているわけです。いずれ現実的な決着はどちらがどうだというように付くのかも知れません。かつてぼく自身も、はなからこの知事は駄目だと言い切っていますから、出来ればそのように決着すればいいとは思うのですが、ぼくにとってはそれは最終でも何でもないし、ぼくにとってはそれはつまらないわけです。告発した幹部側が最終的に全面勝訴という結果になっても、ぼくには全然そんなことで最終にはならないのです。
そういう決着の仕方は二千年にわたって延々と続いた決着の仕方の延長にあるもので、そういう決着ではこれからも同様のことが起き続けることを認めることになります。そういう形で決着したら、そう言うことです。
ぼくが言いたいのは、二千年もの間をかけて、人間の人智はこれを完全になくしてしまうことが出来なかったというところにあります。そして現在も、依然としてそんな段階にあり、そこに甘んじなければならないと言うことです。
ぼくが思うには、相変わらずそう言うことが繰り返される背景には、そうしたことが起こりうる条件なり、状況なり、場というものが変わりなくあるからです。そういうところにメスを入れないと、変えていかないと、これから百年たち、千年たっても同じでしょう、と言いたいわけです。
今般の兵庫県問題が現実的な決着としてどうなるか、まだ全然分からないわけですが、これがどう決着が付こうが、最終の問題は残ったままな訳です。心情的には、どう言い逃れようとも、組織内から死者を出してしまったことは、知事職にあるものの采配によって起きているわけですから、そこに最終責任は帰されるべきものと思い、そういう決着になることを期待します。
けれどもぼくは、最終の兵庫県問題は、兵庫県問題の決着は、そこにあるとは思っていないのです。そう言うことが起こりうる場を、何とかして無くして行くとっかかりを顕わにしたいという問題意識を持ってこの問題を注視し続けてきました。
結果的には、他に頼るなと言うことになりましょう。
国政の在り方,地方自治の在り方、その仕組みや制度。根本の、そういう全てを見直し改変しなければこうした問題は今後も頻発するはずです。
個人的には、ひとりの人に絶大な権力を持たせるような仕組みはそろそろ無くしていくべきだと思ったりするのですが、代替となる組織や仕組みを考える力はありません。たださまざまな不幸の根っこの一つがそういうところにあるならば、そういう根っこは掘り起こして破棄すべきでしょうと思うわけです。
正義はどっちかとか、組織にとって有能なのはどっちで有害なのはどっちかとか、権力者としての対応が稚拙でお粗末だとか、今もSNSでは呟かれ続けています。問題の内実に入り込んで言えば、ぼくは当初から知事の対応は駄目と判断しています。そういう結果になることを期待もします。しかし、真の問題は事件の内実にあるのではなく、外側の構造にあり、そこまで批判は貫徹されなければならないと考えました。兵庫県政の異常事態が正常化して終わりと言うのでは、何も変わらないのです。今回のような抗争を生む、組織構造が元に戻ればそれですむという話ではないとぼくは考えてきました。国政もそうですけれども、都道府県の自治の在り方、形態、その構造が批判されなければならないとぼくは思っています。県の経済から教育からほとんど多岐にわたって統制できる機関というものは、いろんな意味で既得権益などの温床になるものです。そんなものはきちんと教育すれば、誠実な社会人として育成できれば、無くなっていくという考えは、それは嘘です。そんなことはとっくの昔から、現実に起きる事件によっていくらでも証明されてきています。
県政なんて守るべきものじゃないとぼくは思います。解体すべきものだと思います。今すぐと言うことは無理だと思いますが、今回の対応を見ても、知事や側近、あるいは他の幹部職員、平の職員、どこを見ても、平等と言うことを血肉化して自立した魅力ある人間はぼくの目には見当たりませんでした。悪い言い方をしてしまいますと、県民に奉仕する公務員ではなくて、権力や組織に奉仕する公務員になっていると思います。それは個々の職員が悪いのではないです。社会構造や県政の構造がそうさせてしまっていると思います。
このあたりのことを詳細に論じる力をぼくは持っていませんけれども、現在の体制を維持したままでよいことは何も無いと思います。県政に群がるのは圧倒的に権益を求める者たちです。元を絶たなければそれは続きます。税金といううまい汁が元凶なんだと思います。
これ以上のことは頭のよい人たちに任せて、そういう人たちに語ってもらうしか仕方がありません。ですが、大手メディアにしろSNS界隈にせよ、みんな議論は途中までです。隠れていたり、この問題自体を相手にしていないんだと思います。そういう本当の考えを探して見つけ出せることが出来たら、きっとこの問題が提起する低俗、または通俗な磁場からは自由になれるに違いありません。
兵庫県問題はそろそろ決着が付く頃かと思います。知らぬ存ぜぬの斉藤元彦知事が白を切って逃げ切れるか、あるいは司直の手に委ねられ、裁かれるかというところです。しかしこれはここまで述べてきたように、表層か深層かで言えば、表層の解決の仕方でしかありません。
一般的、常識的な解決はこういうところで行われています。ぼくからすれば上っ面の解決です。上っ面の問題の取り上げ方と、上っ面の解決の仕方と、今の社会ではこれが精一杯です。これが悲喜こもごもとなって現実の日常世界を形成しています。そういう意味からは当事者、関係者においては切実で重要な問題です。けれども何度も言うように、こういうことは上っ面の問題で解決です。通常通り解決すると、片方が喜び、もう一方はがっかりする。それで終わりです。そうしてまたどこかで同じことが繰り返されます。これだと未来に向かって何の役にも立たない解決の仕方でしかありません。深層の解決には目をつぶったままですから、未来に役立たないのです。 切実さのない第三者、野次馬だからこういうことが言えるのですが、こういうことが二度と引き起こされないためにはどうすればいいかという、もう一つの切実さからすれば、こういうことが問われてしかるべき問題であると、ぼくなんかは思うところです。